みらい21かなる

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美濃賀茂市長への控訴の論点 新しい社会保障 ミュンヘン報告 オランダ報告 成年後見制度の能力判定 新成年後見制度のゆくえ
 昨年の横浜での成年後見国際学会の薫り高い理念宣言、「横浜宣言」 の後、後見制度の実質的な改変が動いている。
制度の拡大、後見の仕事の行く末を、長期的に展望すれば、利用者国民からの支持、信頼にかかっているであろう。
この間の非常事態(後見人による財産侵害そして大震災)を前提にして、急ぎ動いている中身は
旧成年後見制度(禁治産制度)へと回帰する可能性があるので、慎重な議論が肝要と思われる。
この改変の動向についての議論のベースを構築したい。
成年後見制度のゆくえ
目次
1.先進諸国の新成年後見制度の誕生                2.日本の成年後見法の特徴について  
3.今年になって動いている成年後見制度              4.後見人による財産侵害について      
5.被災地の後見ニーズ                         6.行為能力を剥奪せずに、後見活動を行えないのか?
7. 高齢者の個人金融資産                       8.成年後見制度の能力判定   
9.包括的な能力剥奪ではなく、必要に応じて権利制限を行う   10.戦後日本の政治手法      
11.成年後見制度はその創設の理念を守る事ができるのだろうか?
                                       後見支援信託への質問(2012/4/15ブログから)

成年後見制度のゆくえ                       
新成年後見制度の誕生(1)    2011.10.28 Friday
世界の成年後見制度は、1990年代の前後、福祉国家群がめざした成熟社会の到来を前に、自理弁識能力が衰えている人々の「私的自治」に大きく配慮して、旧制度(禁治産制度)を改め、各国で次々に改革されていった。(このホームページの、オランダ報告に概要があります)

新しい後見制度が鬨の声を上げたその時、世界はまさにグローバリゼ―ション経済が展開する前夜であった。西欧福祉国家は揺らぎ、その改革が模索される中、世界の新成年後見制度は二つの法形式をもって成立している。 一つはコモンロー諸国、契約法の補完としての持続的代理権授与法、その名の通り個別の代理権の授与を行う形式、他方は大陸、ドイツの「世話」と言う福祉的な、身上監護を主眼にした世話法と言う形式である。

ドイツ法の世話とは、その人が実際の生活の中で判断力の衰えの為に不足している能力を「世話」によって補うという事なので、いわば福祉的概念である。そしてこの新しい概念によりドイツ世話法(成年後見法)は、判断力の衰えた市民であっても、その行為能力を奪わずに「世話」をして身上の監護を図るとして、当事者の「行為能力剥奪を放棄」した訳である。

戦後のドイツは、ナチス時代、圧倒的支持を得て議会により制定された法律に基づいて合法的に実行された死刑、密告等に対して、法実証主義の法哲学者ラートブルフを戦後自然法論者に転向せしめたほどの議論をへて、「人道に対する犯罪」を遡及的に処罰する事さえ可能にしている。「罪刑法定主義」をも覆したのだった。

『「権力」によって根拠付け得られる実定法の事実的妥当は単に「強制(ねばならぬ)」として与えられるにすぎず、「当為(べし)」として義務付け可能な規範的妥当のレヴェルには届かない。そのために必要なのは、「正義」と「合目的性」=「公共の福祉」からなる価値、すなわち「法律に内在する価値」なのだ。(GU:88[259-60]) 』として、『法律を超える(ubergesetzlich)』法である『自然法』の復活が宣言された 』とされる展開であった。 

この伝統故であろうか、ドイツ成年後見法(世話法)は、自理弁識能力の衰えた市民に対する国家による権利能力剥奪を放棄し、その残存能力を大切にして行う世話を求めた訳である。新後見法は我が国においても、高齢化社会の到来を控えて、認知知症になっても、判断力が衰えても、その人らしく地域で暮らす事ができるように判断力の衰えを支援するとして、介護保険と共に期待された新制度であった.

日本の成年後見法の特徴について(2)
          2011.10.29 Saturday
旧成年後見制度(禁治産制度)を改めて、新後見法がなったのは10年以上前、その時点で、日本の新成年後見法は、先行する各国の新後見制度の良い点を取ったという説明を聞いた記憶がある。

その特徴は一つはドイツ法とは違い行為能力剥奪規定を持つ事、二つ目はその上で能力の程度に応じて3類型(補助、補佐、後見)と区別している事であろう。また各国の制度がどうなのか分からないが、私が驚いているのは三つめは管掌する行政機関が無く、司法裁判所が直接管掌する制度である。三点目、これが特筆に値すると思う。

二つ目の三類型だが、三類型のうち、補助、補佐類型は利用者の行為能力を部分的に制限して、残存能力を尊重し、当事者の私的自治にできるだけ配慮する類型である。この二つの類型を新設し、新成年後見制度は全体として、つとに自己決定を尊重し、当事者の私的自治に配慮する制度として受け止められていると思われる。制度創設時の議論においても、新後見制度の利用は後見類型は少なく、補助、保佐の利用が圧倒的であろうという素朴な期待、予測であった。私自身もその期待の中で、その理念性に賛同して見守った事を思い出す。(そのため一つ目の重大な特徴、ドイツ法と異なり「行為能力剥奪規定を持つ事」の現実的意味合いが、関係者の間で軽視されたのではないかと反省する。)

しかし蓋をあけると、新制度では(創設時よりは3、4%は減じているが)、平成22年度現在においても全容認件数29478事例中85%が後見類型である。この事が示すのは、我が国の成年後見制度は、当初の期待にもかかわらず、実際は「当事者の行為能力を包括的に剥奪する後見類型」として後見が行われている事である。ほとんどが後見類型なのだから、旧禁治産制度同様の能力剥奪を行った上で後見をされる後見類型では、利用者の能力水準には大きな幅がある事となる。

三つめは、この制度は裁判所(家庭局)が直接管掌する制度である。後見人達の報酬も個別事例を、年毎に全事例を裁判所が個別に審判で決する。大変な手間がかかる非効率的な運用で有ると同時に、その報酬額の実態、水準などは裁判所が開示しない限り誰も知り得ず、裁判所の審判で決した金額について、利用者側、サービス提供側(専門職後見人)には不服を提示する余地は無いのが現実であろう。制度運用についても、指導、指示、新制度創設(後見信託なども)も、諸プロセスを抜きで裁判所が直接起案、実施する。後見支援信託なども、あっという間に成立させている。関係各方面とのコミュニケーション不足などと指摘されたのは、この管嘗方式も関係しているのであろうか。

この環境の中で、多くの専門職後見人、司法書士、社会福祉士等は、新しい後見制度の理念、ノーマライゼーション、私的自治の拡大、残存能力の尊重などを念頭に、日々研鑽、努力して後見活動を行ってきている。私達はそのような多くの実践に接してきている。

しかし一方で後見人の被後見人への財産侵害はかなりあるという前提で様々な制度上の変更が提案、実施されている。特に昨年、横浜での国際後見学会に於いて、その理念を高らかに採択しつつ、今年に入って制度の理念にかかわる改変の動きが急展開しているところである。

今年になって動いている成年後見制度(3)          2011.10.31 Monday
昨年横浜で行われた成年後見国際学会の薫り高い理念宣言の後、我が国の後見制度の周辺は動いている。

一つは後見人による被後見人への財産侵害をうけて、後見支援信託の導入がなされた。反対の立場なのかと思っていたら、司法書士会はこれを受け入れ、後見人の働く環境整備、後見活動の拡大を条件にうけいれるとの司法書士会のメッセージが出されたばかりである。

二つには弁護士、司法書士、社会福祉士などの専門職後見人は、後見の受任に際して個人情報(初めの案では年収、学歴を含むもの)を裁判所に提示する事となった。これまでは専門職者はこのような情報を提供する事は無かったが、専門職後見人の権利侵害が頻発しているという印象の中で、会員の全員調査が行われるなどの動き、これと連動しているのか実施され始めた。

三つめは、最新の成年後見学会のニュースレターによれば、東日本大震災をうけて、親族による後見選任の申し立てが困難な状況を踏まえ、市町村長申し立ての促進が必要であり、さらに検察官が公益を代表すると位置付けたうえで、検察官による申し立ての活用が必要としている。さらに公的後見制度の導入を求めている。この3つの流れに共通するのは、非常事態(財産侵害事件、大震災)への対応として制度を急ぎ纏める所である。

この動きの中で後見に携わる私達は、10年前に新たにされた後見法に書き加えられた理念、意思能力が衰えた人々の「私的自治に配慮」に軸足を置いた活動の中で、被後見人の「保護と自己決定」のバランスをどう測るのか、この両面のバランス、在り方を考えなければならないのであろう。

念頭に置くべき事の一つは、我が国の新成年後見法は、当初の素朴な期待にも拘らず、結果的には現在では「自理弁識能力の衰えた国民の権利能力を包括的に剥奪」した上で行う後見制度(禁治産制度に近い)である事。(全体の85%は後見類型である)

また新後見法の守るべき「私的自治」とは、だれから私を守るのか。近代法の成立過程をみれば、当時の絶対王政、国家権力との拮抗関係そのものである。また歴史的にさまざまな国家が行った規模の大きな人権侵害は枚挙にいとまがない。ナチス、スターリン、ポルポトなどは、国家権力を握って初めて行い得た暴虐の規模である。国家からの独立、それが私的自治の本質であろう。

この二つを念頭に、自理弁識能力に問題のある人々、利用者国民の幸せの為の制度であった筈の、制度創設時の理念にもどって、今の成年後見制度の改変の動きを考察すべきであろう。

特に日本社会は未曽有の震災、放射能禍に見舞われ、今後月々数万円を投じてこの制度を利用できる豊かな高齢者は90代、80代の方々に集中するのではないだろうか。私達60代は子世代への援助、年金額の動向等で月数万円を投じて財産管理ができる人が層を成すとは思えない。そのため、ここ数年で後見ニーズは身上監護にニーズにシフトすると思われるので、その変化に対応する制度の在り方を再考し、今進んでいる最高裁家庭局の提案、この改変の方向を拙速に受け入れずに、慎重な議論が必要であろう。

制度の拡大、後見の仕事の行く末を、長期的に展望すれば、利用者国民からの支持、信頼にかかっているであろう。この間の非常事態を前提にして、急ぎ動いている中身は、旧成年後見制度(禁治産制度)、能力剥奪法へと回帰する可能性があるので、慎重な議論が肝要と思われる。

後見人による財産侵害について(4)           2011.11.02 Wednesday
後見人による財産侵害、権利侵害が後を絶たないと言われる成年後見制度である。しかし、実際にどれだけの権利侵害があるのか、実数を把握しているのは裁判所(家裁)だけであり、専門職後見人の財産侵害についは、噂のレベルでその実数は不明と言うべきであった。

ところが、この10月20日の新聞報道(裁判所がリークしたのだろう)では昨6月からこの3月までの10カ月間に、親族後見人182人、専門職後見人が2人が加害者であるとしている。何故昨年度分12カ月から、4月5月分を除いた10カ月間の集計値なのか、不明であり不自然な感がある。また被害総額は180億との事である。

このような報道からは、専門職による侵害は少ない事、そして親族後見人による侵害額は非常に大きいとの2点が印象として残り、後見支援信託やむなし、専門職後見をふやすべきとなり易いであろう。しかし、一人の後見人がどの位の額を侵害しているのか個別事例の状況は全く見えない。大きな不動産を持つ被後見人の被害額は億単位にもなろうが、そのような事例が多いのか、1000万規模が何件か、100万単位はどうかなど、エクセルで棒グラフ化すれば、寸時に1事例あたりの被害額、そのばらつきは明確に分かるであろう。

また親族後見人とは、同居家族か、子か、孫か、相続権を有する人々との関係、何よりも加害者の側に悪意があるのか、権利侵害の自覚があるのか、家族だから使って良いと思っている場合もあると聞き及ぶ。親族後見人の財産侵害を防止する為の指導には大切な情報である。裁判所は当然これらの詳細情報を持っているのだから、専門職集団側はその点の情報開示を求めて、安易に大変な事態として、後見支援信託を受け入れずに、実態の正確な把握が必要と思われる。

私自身が長年財産侵害者として疑惑をきせられて、たびたび逮捕直前とされていたが、私については全くの嘘であり、それを知った時私はあまりの架空話に茫然であった。何が疑いの元だったのか不明であり、この体験から私は噂や印象と実態の間には乖離はあり得ると思うに至っている。この情報の出し方は印象操作的ではないかと思われるので、この情報からの印象に基づいて制度のゆくえを決める事は、拙速ではないだろうか。

親族後見人の財産侵害防止のためには、その実態について情報の開示がまず必要であり、そこから議論を始める事が望ましい。

驚愕する私に「泥棒と間違われてまでする仕事ではない」と、これが家族の感想であった。またこの種の噂が蔓延してくれば、利用者国民も疑心暗鬼となり、利用には慎重にならざるを得ないであろう。専門職者側もなんとなく尻込みする。この空気に配慮して専門職は非常に少なく、安心であるという情報操作、印象操作でもあろうかと邪推する。

社会福祉士の友人諸氏は献身的に、教科書通り、理念を生かした活動を模索しているのだから、専門職職能団体側は、個人情報に配慮した上で、個別事例の状態が見える形の情報開示を求め続け、事実に基づいて、制度改革の方向を見誤ることの無く、慎重な議論がを重ねてゆかねばならないと思う。

被災地の後見ニーズ(5)           2011.11.03 Thursday
急ぎ「検察官による申し立てを導入」して行いたいという被災地の後見ニーズについて検討したい。私の故郷は宮城県である。

昨日の報道では「東日本大震災で大きな被害を受けた岩手、宮城、福島の東北3県では、路線価が地域によってゼロや8割減となる調整率が示された。」との事である。この状況では財産侵害のうち、不動産を巡る詐欺等は、不動産の売却が困難、放射能がこの先30年は降り続ける被災地で、土地を巡って詐欺などは想定しにくい。値がつかない土地を持っていても、換金どころか管理諸経費がかかるであろう。

震災の10年近く前でも東北の農村部は過疎化して地価は低下しており、広い庭付きの農家(300坪くらいか)に耕作地付きでも一千万円になり難いと聞いた事がある。米作りが採算に合わない昨今の米価では、耕作地も値が下がらざるを得なかった。そこに放射能なので、8割減、ゼロとまで調整されている市もあるのが現実である。

この中で、若い世代は子供への健康被害の不安があって避難地から戻らない人達も多く、高齢者だけが生活をしている。侵害される事が危惧される資産価値が急速に減却している中、小額の金銭管理であれば、無料かつ、能力剥奪を伴わない社会福祉協議会のサービスの利用が妥当かもしれない。寒さに向かい、身近な自治体の福祉サービスの展開が軌道に乗る事を期待する。

今回成年後見学会が「掘り起こす事」が必要としている後見ニーズは、被災地では財産管理よりは、身上監護ニーズに焦点があたるのかと私には思われる。身上監護ニーズに対して適切に応える為には、当事者への訪問等が丁寧に行われなければならないので、財産侵害の兆候にも気付きやすいであろう。身上監護ニーズへの対応が軸になれば良いと思われる。

今回のジャガレターの主張では、被災地ニーズに関して本人の「意思を尊重しながら本人の権利、利益を守る」と言う抽象的な表現だが、現地後見ニーズを構造の把握が無いまま、多くの新制度の提言がなされている点が残念であり、同時に危惧を抱くものである。

身上監護ニーズ対しての後見活動では、福祉諸制度等との協働、そしてある意味で住み分けが必要であろう。ドイツ法でいう、身上監護のうちの居所指定(施設収容、住宅の解消など)、医療処置手続きへの同意などの重要事項、同意留保事項などはその最たる部分であろう。

また、現在の日本の成年後見制度の実施状況からみても、被災地での後見申し立てと認容は後見類型に集中すると思われるので、身上監護について、行為能力を剥奪して行うメリット、デメリットを利用者国民、被災者に説明する必要があると思われる。

行為能力を剥奪せずに、後見活動を行えないのか?(6)    2011.11.11 Friday
我が国では、後見の利用は三類型が用意されていてもその利用は後見類型に集中している(85%)。高齢者の利用が中心だが、このため後見類型と言っても能力水準は大きな幅があり、能力水準の高い利用者でも後見類型となっているのが実態である。これは能力水準の高い人でも後見類型で包括的に権利能力を剥奪された形で支援が行われていると言う事でもある。

後見人の手間を、三類型別に比べると、後見類型は、後見人の判断だけで事務が進められるので補助、保佐よりも格段に少ない。この辺りが、後見人の確保が難しい中で、後見類型が主流となっている理由の一つとも言えよう。

しかしわが国の後見類型は包括的に行為能力を剥奪しているので、当事者の意思確認等の手間が少ない(無くて済む)分だけ、後見人は当事者と相見(あいまみ)える機会も少なくなり、個人的世話とは言えない事務遂行が可能であり、後見人は多忙な中そう傾きがちであろうか。身上監護には不向きというべきではないだろうか。

ドイツ法では、身上監護の重要事項に、ドイツ法に言う同意留保事項(施設入所、居所指定、医療同意)規定を持つ。同意留保とは、その事項に係わる意思決定が、身の安全に重大な影響を及ぼす事項に限って適用される、例外的な制度である。その同意留保事項であっても、ドイツ法では行為能力を剥奪した上で世話を始める訳では無い。世話は身上監護を重視した後見活動だが、行為能力剥奪とは切り離されている。

同意留保事項では被後見人と後見人の同意は留保せしめて、裁判所が当事者、後見人からの聴聞(2時間にも及ぶという)を行い、個別の強制監置などの問題について決定するので、いわば患者の代弁が組み込まれている。コモンローにおける法的無能力も個別具体的な権利についての能力制限なので、その個人に於いて包括的にすべてを無能力とするのではなく個別的な吟味が入る。「能力推定の原理」という考え方を原則として、全ての人々に於いて、反証されない限り、その人の能力は推定され得るものであるとする。つまりイギリス型、ドイツ型の双方共に包括的に被後見人の能力剥奪をせずに、後見活動を行う。

ドイツ新後見法は、財産管理よりは身上監護に重きを置いた、身の安全の為の世話を主眼として、その名も世話法と言うが、世話は個人的世話を不可欠としている。個人的世話とは、人間的な繋がり、配慮の中で世話を行い、事務的では無く、その人の生活文化というのか、好みなどに配慮して行うべしと理解されている。法人後見、機関やグループによる後見の否定ではない。この形式において被後見人の行為能力剥奪を放棄している訳だ。

一般的には人には、死に方、死に場所を選ぶ自由さえあるのだから、身上監護重要事項、同意留保と言っても結局司法が関与するのは、医療措置への同意問題がほとんどである。医療同意と言っても現実問題としては、精神保健法の強制監置の要件「自傷他害」を、事実関係からどう確認して判断できるのかがテーマとなるようであった。ミュンヘンでも同意留保事項の司法関与はほとんどすべてが精神病院への強制監置問題であった。

それらを踏まえると、我が国の成年後見法の行為能力を包括的に剥奪する形、現後見類型での支援は、歴史的経過の中で精神保健法が守ってきた自理弁識能力に問題のある人々、精神障害者の抗弁権、人権規定をやすやすと空にする事に繋がりはしないのだろうか。

目に浮かぶのは、被災して家族を失い、心神喪失状態の中、たとえば反原発なり、時の政府の責任を求める姿勢を強めるような高齢独居の市民の場合、彼は心神喪失に近い悲しみ、絶望の中で、生活の纏まりは欠きつつあり身上監護は必要であっても、人権擁護の観点からは、その政治的な権利(選挙権など)等は奪う事はできないであろう。

身上監護のためには、包括的に権利能力を剥奪する後見類型の基本構造を変える事が望まれる。制度の高らかな理念を現場の後見人の努力によって果たすという現後見制度は、身上監護ニーズへの対応の為の改革が必要となっている。ニーズを踏まえた、論議が待たれる。

高齢者の個人金融資産(7)
          2011.11.14 Monday
まさに今、その為に首相が渡米しているTPP(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)で金融業界が自由化されるならば、外資が来て日本の個人金融資産1400兆円の奪い合いになる。その個人資産の90%以上が銀行預金経由で国債の購入に充てられているという日本の今である。その74%を保有しているのが団塊の世代以上の高齢者である。人によっては全ての預金を信託銀行に信託を強制される後見支援信託が既に整えられつつある。

成年後見制度は判断力に問題があるとされる高齢者の財産管理を代理する必要がある場合、包括的に行為能力を奪う事ができるのだから、使い方によっては非常に大きな力を持つことになろう。

伊藤栄樹元検事総長は『検察庁法遂解説』において検察官について「一人一人が独立の官庁として、国家権力のもっともむき出しな行使の一つであり、個々の国民の権利義務に重大な影響を及ぼすところの検察権を、もっぱら自己の判断と責任において行使するという、大きな権限を持っている」と記している。

刑事訴訟法は国家機関のうち検察官にのみに起訴する権限を認める国家訴追主義、起訴独占主義を認めており、同時に犯罪の嫌疑があっても起訴しない事も出来る裁量権、起訴便宜主義を定めている。さらに日本の検察官は全ての種類の犯罪について捜査を自ら捜査するが、欧米では専ら公判活動が中心であり自ら捜査はしない。日本の検察制度は例外的、特殊な形式であるという。

それだから検察による捜査段階での証拠捏造までも可能であり、物的証拠なしでも調書で起訴となったのが最近の村木さんの例である。日本の検察制度は冤罪可能な特殊な形式であると気付かされる。その上、検察が起訴すると99%以上有罪となるほどに日本の裁判官と検察官は一体的だから、国民の生殺与奪を握っているという指摘もある。その上後見の審判は非訟事件として非公開である。

成年後見学会は検察官が公益を代表するとストレートに位置付けているが、この構造上、検察官の判断が恣意的・独善的な処理に陥る惧れもあるわけだ。特定の政治勢力の影響を受けた場合には極めて危険なものとなると指摘する向きもある。昨今の佐藤前福島県知事や村木さん冤罪の例から、少なからぬ国民がこの指摘を「なるほど」と思って見守っているところであろう。

公益に言う「公」は、人により様々な捉え方があり得る。共済的な組織や生協などはそれぞれの「公」を、それぞれの事業展開をもって達成しようとしているとも言える。ナチスやポルポト政権も、スターリンでさえも、歴史の一時期「公」であったのだから、何が公かは歴史的評価を待つしかない訳だ。特に昨今はそれが混乱する歴史の転換点である。慎重に「公」の意味を吟味し、新成年後見法の目的、原点に戻って、被後見人の利益を中心に据えた議論が必要な時だと思われる。

営々と蓄えた高齢者の資産をその人の幸せの為に使えるように支援する制度であればこそ、成年後見制度は拡大すると思う。財産管理ニーズは、ここ数年で減少するだろうが、TPPとなればかなり短期間に金融市場は様変わりであろう。財産管理よりは、身上監護にシフトする事が今後の成年後見ニーズへの対応であろうと思う。

福祉制度が後見制度のニーズのすべてをカバーできるのでもない。福祉サービスの質の担保、収容施設の処遇改善のために、独立した外部の目は不可欠である。しかし、そのために包括的な権利剥奪をする事は後見人に過大な裁量を与えすぎて、より大きな権利侵害を招く惧れがある。

権利擁護する側の人権感覚が問われている。

成年後見制度の能力判定(8)           2011.11.15 Tuesday 
私は5年前に放送大学の修士論文(行為能力判定について)を書いたが、そのモチーフは、意思能力判定のあり方を変えて、上記三類型の区別を事実上無意味として、一元的な成年後見制度にできないのかという事であった。

意思能力が、たとえば個人の身体、脳(前頭葉か)に宿る力と言った能力概念であれば、その人はその能力故に、全ての行動において判断に問題があり生活に不自由をきたすと言う事になろう。包括的に権利能力を剥奪する事を導く論理はこれに近い能力概念によると思われる。

しかし人間の生きる意欲は、家族関係や集団内での役割などで支えられ、能力の限界を押し上げて多くの可能性を引き出す事はよく見聞きする。また安定した心理状態でする思考と、諦めや疎外感の中での思考では同一人であっても異なるであろう。また資産の少ない人はその範囲の財産管理能力があれば問題は無い訳だ。言い換えれば、その人を取り巻く社会関係が能力水準を左右し、生活環境もしかりであるというのが、新しい後見法の能力概念である。そして生活維持のために必要な能力は個別的である。

新成年後見法においては、ある脳機能の状態(病変)を持って生活する人が、その人の生活の中で出会う生活困難、危機をとらえて、後見の申し立てをする。その人の生きる環境の中で、遭遇する個別の生活危機への対処行動がうまくいかない内容を後見活動によって支援しようとする。判断力(自理弁識能力)の衰えを支援する。

ところでイギリスでは法律委員会の能力判定への3つのアプローチ(状況判定、機能判定、結果判定)のうち機能判定(理解力判定)が主流だと言う。これは個人が意思決定する際に、彼の内心の思考過程を重視している。この機能判定とは、自ら意思決定する事の一般的内容と起こりうる結果を理解し、その意思決定を他人に伝達できるかどうかが重要と考えられているとされるが、これが我が国の法に言う自理弁識能力と思われる。

しかしながら、内心の思考過程がどのようであるのかは、事実としてその過程を明示的は知ることはできないであろうから、擬制とならざるを得ない。西欧近代は、考える葦である人間の理性、自我、内心の意志に重きを置いて中世世界を突破したのであった。しかし21世紀となった今、この19世紀的な理性的な思惟、近代的自我の閉鎖性は、一転して、権力を持つものが向けという方向に「いかようにも向いて完結する事ができる」という構造的欠陥を露呈しているのかもしれない。内心の意思過程というのも擬制と言わざるを得ないだろう。

現代思想の課題は、この近代的思惟の構造、閉鎖性を、社会との関係の中から解き開く事であろうか。裁判官の思考過程、検察官の思考過程、同様に人間の能力、人間観を、その人の生きる社会関係性という、動いてはいるが、事実として目に見える形を通して、擬制を実在に置きかえる事であろうか。
      
包括的な能力剥奪ではなく、必要に応じて権利制限を行う(9)      2011.11.16 Wednesday
ドイツ法世話法にせよ、イギリスの持続的代理権授与法にせよ、それぞれ当事者の個別事情、生活問題、後見ニーズへの対応が問題とされる。一つ一つの問題についての手当であって、包括的にその人の行為能力を剥奪する旧制度を改革したのが新成年後見法であった。現下日本の成年後見法、後見類型は旧制度と同じである。

新しい成年後見法は内心の思考過程の異常、病変を抱えつつ行う社会的行動の様態、その行動が引き起こした生活危機、後見ニーズへの支援を行う制度である。

なので、私は支援の対象であるその人の社会的行動、法律行為が引き起こす生活危機、その危機の程度を評価する事を通して、その人の思考過程の異常という内面を測る事はできると考えてみた。私の修士論文は、その人が行う法律行為が引き起こす生活危機の評価により、後見制度を利用するか否かを判定する事ができるので、当事者の行った法律行為の結果、事実関係の評価が能力判定そのものに通じるとしている。(危機には旧法から引き継いだ市場の安定と被後見人の身上の危機を含む)

成年後見活動の中身を身上監護に軸足を移すならば、成年後見の事務は、福祉諸制度などの生活支援のサービスの吟味を中心に置く事になり、どんなサービスがどう必要か、結局はニーズ調査に近い内容になるので、この能力判定で矛盾は生じ得ないと思われた。身上監護ニーズを持つ利用者の行為能力を全面的に剥奪するよりは、それぞれの必要(ニーズ)に応じた事項に関係した行為能力の制限となる方が、身上監護、心身の安寧のためにも、論理的にも妥当であろうか。当事者の残存能力に配慮できる形式でもあろう。

包括的に行為能力を剥奪する現制度では、後見人は裁量権が大きい中でケースを孤軍奮闘抱え込む事となり、権利侵害、財産侵害等をも抱え易い形式でもあろう。

包括的に行為能力を奪う後見類型の利用が利用者の85%にも達する我が国の成年後見制度であるからこそ、利用者の人権に配慮すれば、主要なニーズとなる身上監護をこのままの形式で続けて良いのかが問われる。包括的に行為能力剥奪する後見類型を、必要な事項の能力制限とする法形式に転換する事が必要であろう。

たとえば、何だかの意図を持つ検察官が一人いれば、その検察官に目を付けられた人は非公開の審判の中、有効に抗弁が出来ない可能性は否めないのが、特殊日本的な検察官の裁量の大き、そしてその中での捜査権、その上検察と裁判所の一体的な関係であろうか。

戦後日本の政治手法(10)              2011.11.17 Thursday
裁判所の運営や司法行政事務についての公式見解としては、「バイブル」のようにさえ見なされてきた「裁判所法逐条解説・上下」(1968年)が生きているそうだ。

この中身は戦後の司法の行政からの独立、三権独立を骨子とする司法改革、裁判官の間での平等、「法曹と言う専門職者間での平等」に基き、裁判所の長官は、他の裁判官と同じ立場で裁判官会議の一構成員としている。この裁判官会議が裁判所の実務執行のための機関であり、その議により行う司法行政事務が適切妥当であるように、事務を担当する諸機関の調整助成する者が裁判所の長官と位置付けているという。

しかし実際問題は、3700名の裁判官に明示されないルールによる人事評価があり、評価する側(高裁、地裁の長官、その他様々)の情報が最高裁事務総局に上がる構造の中で、裁判官会議は実質事務方が握りこみ、形骸化しているという。その任地(転勤先)、報酬について影響を行使しつつ、裁判の中身までを左右する司法官僚組織の下で、ヒラメ裁判官などと言われる、人事権を持つ集団の意向を伺わざるを得ない裁判官文化がすでに根付いているのだろうか。ある意味生殺与奪を握られている。

おなじく憲法9条にしても、薫り高く戦争放棄しているそばから、自衛権の行使は例外として、5兆円の国防予算額は世界第3位の規模を誇っている。非核三原則を国民に示して、アメリカとの間ではその真逆が密約され実行されていた。

成年後見制度も、横浜宣言の薫り高い理念の宣言の後、数か月で後見支援信託を成立させて、このために親族後見成った高齢者の金融資産は月々の必要経費を前もって提出させられた後は、それ以上を消費する時は面倒な手続きを要する信託銀行への信託となる。すべての金融資産を中途解約して信託を強制される。これは判断力の衰えた高齢者の資産を、後見人の財産侵害から守るため信託銀行に凍結するとの表現だが、TPPによる金融自由化の波の中、外国資本に吸収されつつある信託業界を通じて、高齢者が営々と蓄えた貯金を、外資が安定的な投資資金として活用する為の手立てとも見える。

デフレ下の日本経済政策なので市場の通貨流動性の増加には背反する意味不明な制度であると思う。日本の1400兆円の金融資産の75%は高齢者が持っており、若い世代は苦しく、高齢者は子供世代の将来と自分の介護の不安に備えて、貯金を使うに慎重にならざるを得ない。世代間格差の広がる日本社会の実態である。

理念に酔わせつつ、実態の矛盾を直視させずに受け入れさせるのが、支配層の手法のようである。

成年後見制度はその創設の理念を守る事ができるのだろうか?(11)      2011.11.22 Tuesday
戦後の全ての分野で行われた民主的な改革、その精神、理念の薫り高さの一方で、国家政策遂行側は、実態的にはその真逆の構造を作り上げてきたようである。実行したのは、戦勝国アメリカそして日本の官僚機構だったのだろうか。

それらの手法を良く分析しなければならない。非核三原則さえ真っ赤な嘘、アメリカ向け、国民向けに使い分けてきた政府の手法を今、TPPなどの国民生活の基盤を揺るがす政策転換時に、野田総理はこの手法を踏襲している。理念をなし崩しにする事ができる鍵、裁判所ならば人事権、成年後見制度ならば行為能力剥奪、非核三原則なら日米合意事項の非公開、憲法9条なら何であろうか、それら事実を直接的に要件とする罰則規定でも持つしかないのだろうか。

理念性に酔ってばかりはいられない、実態的、実質的に自分の首を絞める動きを見抜き、その転換の道筋を模索しなければならない。敗戦国の国民であっても、命も、生活も、子供達の未来も、奪われ続ける事はあまりに苦しいではないか。

成年後見制度は新しいのだから、包括的行為剥奪を見直し、私達後見人は被後見人のために手間をかけて身上監護をしっかりと進める事。その実践をとおして、新成年後見制度はその本旨、ノーマライゼーション、判断力に問題が生じた人々の「私的自治の拡大」にもどる事できると思われる。

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